切実ナルモノ

 こんにちは。クンシです。


 にわかに春の兆しが出てきましたね。


 クンシの所属する人事課では、この時期、就職希望者向けの会社説明会を実施してきましたが、説明会も先週で一段落。でも、まだまだこれから。採用試験は3月末から本格化しますし、人事異動の多い4月、職員の異動に伴う仕事がいろいろと待ち構えています。また、新入職員も入ってきます! 私たちスタッフ陣も、不安と期待でいっぱいの3月を迎えています。


 以前どこかで書いたかもしれませんが、クンシは俳句をやっていて、この前自分が参加している俳句結社の10周年記念を迎えるに当たり、エッセイを書くことになりました。エッセイのタイトルは「俳句と私」


 そこで、自分の俳句の原点について書くことにしました。自分はジャパンファウンデーションに入社してから、社内の俳句サークルに誘われて参加したことがきっかけとなり、俳句にはまってしまいました。
 エッセイを書きながら、「何で自分が俳句にハマッたのか」ということを考えて、思い至った結論は、「切実だったから」です。


 私は地方出身(相当な山間の村です…)で、大学入学以降ずっと地元を離れて生活していますが、距離やお金もかかることから、地元に帰るのは年に数回程度。親の顔を見た日も、10年のうち通算何日か。そんな日々の中で、いつもどこかに「自分の住むべきところはここ(東京)でよいのか」という問いがあります。

 学生時代に、「グローバル化とルーツ」にまつわる話を読んだことがあります。グローバル化が進み、ヒト・モノ・カネ・情報がいとも容易く移動する時代になったからと言って、人は完全に根無し草にはなれない…。自分ような根無し草への問いは、「祖国と離れて」や「経済的理由」で移動せざるを得なかった方と比べると、極小さなレベルでしかありません。ただ、それでも、私の中では大きな問いで(現在進行形)、緑豊かな地域と比べて、都会のコンクリートジャングルの生活は、自分にとってはときに「生活の豊かさ」を問うてしまうものでもありました。


 と、そんなときに、俳句と出会ったのでした。


 俳句はご存知のように、季語を必ず一つ入れないといけないルールがあり、四季や、四季にまつわる出来事を詠むことになります。俳句を詠むことによって、コンクリートジャングルの中にあっても、自然を探すようになり、俳句を通じて四季を身近に感じることができ、望郷の念を自分なりに開放する一つの方法となったのでした。自分を育ててくれた土地や人や出来事に対して、せめてもの恩返しにできると言いますか…。それが私が俳句を続ける原動力になっているのでした。


 ふるさとは遠きにありて思ふもの―室生犀星の有名な詩がありますが、私の俳句の例で言えば、ふるさとが遠くにあるからこそ原動力となり得たように思います。


 さて、何でこんな話を書いてしまったかというと(エライこと脱線しました…)、上記は単に趣味の話でしたが、仕事をする上で、「切実なるもの」が大切になることがあるとつくづく思うからです。ちっちゃなことでもよいので、何か一つひっかかるものがある、変えたいと思うものがあるそのちっちゃなことがビジョンとなって、その人が仕事をする上での原動力につながっていく、と思います。



 会社説明会に登場した職員の中で、「どうしてジャパンファウンデーションが国内で知られていないのか」という想いが原動力となって、広報分野でいろいろと新しい取り組みを実践した職員がいて、ああそうだな、と改めて実感したのでした。ジャパンファウンデーションが行う国際文化交流というのは、一つの大きなフレームでしかなくて、その中で人によっていろんな切り口でいろんな切実さがある・・・(あくまで私個人の考えですが…)。



 切実なるもの、について、ふとしたつぶやきでした。